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2024年4月6日
更新

https://yokikai.or.jp/
スタッフの写真
私の診察室です。
2020年(令和2年)4月1日から池井病院に勤務しています。上写真は池井病院です。HPには一切コマーシャルは入っていません。一般の方々や医療従事者のために病気の解説をイラストを多用して理解してもらう事が主目的で作成しています。


自費出版本が完成しました。イラストで学ぶ病気の基礎3 という名前です。このHPでも閲覧できるます。

自己紹介
西都市の大塚病院が実家です。1952年(昭和27年)に大塚病院で生まれました。祖父が産婦人科医、父が外科医だったので祖父が私の出産時には世話をしてくれたと思います。

西都市立妻北小学校→宮崎大学教育学部附属中学校→県立宮崎大宮高等学校→鹿児島大学医学部(昭和47年入学、53年卒業)。

鹿児島大学医学部を昭和53年に卒業し、同年宮崎医科大学(現宮崎大学)第1内科に入局。まだ、宮崎医科大学が誕生して5年目(最上級生が5年生)という時代です

1年目の研修は宮崎県立宮崎病院。当時の病院の建物は現在新しく建て直された病院の前の前の建物で老朽化していました。西橘通りにも近く、勉強もしましたが看護師さんや研修医仲間とも飲みにいきました。
独身でもあり、大いに青春を満喫できて良き時代でした。


第1内科では循環器を専攻し、九州大学医学部循環器内科や北九州の厚生年金病院循環器内科にも研修に行かされました。九州大学のN教授から厳しい指導を受けました。パワハラ発言もありましたが、我慢して耐え忍びました。

厚生年金病院では心カテ(当時は上腕動脈を切開してカテーテルを行うソーンズ法が行われていましたが、その研修のために厚生年金病院に行かされました)、の手技が悪いとカテ台の下で足を蹴られるなど厳しい指導を受けました。これもパワハラですが、当時はそのような認識は誰も持っていませんでした。その厳しさにも良く耐え(😊)、立派な循環器内科医になって、宮崎に戻りました。

その後、西都の実家の病院に戻って勤務しましたが、長兄と大喧嘩の末、飛び出して、熊本の朝日生命に勤務。その3年後には宮崎市の江南病院研修センター長として勤務。
その3年後には大同生命の社医(産業医兼務)として15年間勤務するなど風変わりな医者人生となりました。
その後、大分東部病院研修センター長、富吉共立病院内科勤務などを経て現在に至っています。


現在の私の仕事内容などについて

 外来は循環器内科や一般内科を担当しています。病棟管理は行っていません。主治医として入院患者さんを受け持たないということでこの病院で勤務しています。根が真面目なので(ホントに)主治医になると、一日中患者さんの病態が気になってしまい、夜も『患者さんの治療内容はこれで良いのだろうか?診断は正しいのだろうか?』などと気になって寝付けないこともあるからです。

 西都の実家で勤務していた頃は激務もありましたが、入院患者さんを10人ほど持って外来も毎日ありましたので体調を壊すことがしばしばでした。

 その他、老健施設のみずほの施設長も兼任しています。施設は50人までお世話できます。デイケアなどを利用している人達も何かあれば診察、治療します。

患者さんや医療従事者に対する情報提供

患者さんに病気の解説などをイラストを多用して分かりやすく解説したプリントを病院外来の掲示板に掲載しています。月に1~2回の割合で掲載内容を変更しています。

 医療従事者も病気の事や体のことを良く理解しておく必要があるので、掲示板に掲載した内容をプリントアウトして配布しています。患者さんへの情報提供に加えて、更に専門的な内容を追加しています。看護師の皆さんは勿論のこと医事課、検査部、放射線科、老健、栄養士、薬剤師、デイケア、訪看等々各部署に配布しています。以前、勤務していた病院で同様の仕事をしていましたが、これらの情報提供のプリントを一冊の本にまとめてきたのが、このHPでも紹介していますが、自費出版本ということになります。